絶対笑顔でまだまだいっぱい夢見るブログ

日常について書くブログです. 技術的な話はこちら: https://papix.hatenablog.com

友を訪ねてカンボジア 〜トゥール・スレン〜

これは, 「友を訪ねてカンボジア 〜4日目/5日目〜」で紹介した, 4日目のプノンペン滞在時の出来事のうち, トゥール・スレンを訪れた時の様子を綴ったものです.

papix.hatenablog.jp

※ここから先は, 少し衝撃的な内容が含まれます. 苦手な方はご注意ください.

f:id:papix:20190324155349j:plain

...さて, トゥール・スレンに到着しました. 受付で入場料を払い(5ドル), あとはレンタルの音声案内機(3ドル, 日本語にも対応しています. 個人的には余程節約したい訳でないのなら, 借りることを推奨したいです)を借ります.

トゥール・スレン. それはかつてカンボジアを統治していた, クメール・ルージュの痕跡の1つです. 1979年1月, ポル・ポト率いるクメール・ルージュがプノンペンを占領して以降, 数年に渡ってカンボジア全土を襲った大量殺戮. ここは, その現場の1つでした. その詳細については, ここでは多くを綴らないでおきます. 関心を持った方は, ポル・ポトやクメール・ルージュについてのWikipediaの記事を読むのが, それらの出来事に触れる第一歩になるのではないか... と思っています.

ja.wikipedia.org ja.wikipedia.org

f:id:papix:20190324155529j:plain f:id:papix:20190324155421j:plain f:id:papix:20190324160123j:plain

さて. この建物は, かつて高校として使われていたそうです. しかし, 「革命に学問は不要」という方針を持つクメール・ルージュは, プノンペン占領後, この建物を反革命分子を尋問するための強制収容所へと転用したのでした.

f:id:papix:20190324160303j:plain

建物の周りは, 今も鉄条網で覆われています. トゥール・スレンの周囲は今でこそ様々な建物が立ち並び, 市街地で人通りも多いですが, 当時はクメール・ルージュによる農村への強制移住政策によって, ゴーストタウンのようになっていたそうです.

f:id:papix:20190324160321j:plain

トゥール・スレンにある建物は, かつて独房として, 雑居房として, 或いは尋問室として使われていたそうです.

写真の建物は, 当時尋問室として使われており, 部屋の中には1つの大きなベッドが置かれていました. ベッドには拘束具があり, 収容者はそれを使って拘束された状態で尋問を受けていたようです. 加えて, それぞれの尋問室の中には, ベトナム軍の侵攻よってクメール・ルージュがプノンペンから撤退した後, トゥール・スレンを発見した, まさにその時に撮影された写真が掲載されています. ...クメール・ルージュがトゥール・スレンから撤退する, その間際に殺害された収容者の写真です.

f:id:papix:20190324160807j:plain

これは, トゥール・スレンにおける尋問の規則です. Wikipediaに日本語訳があったので紹介します.

  1. 質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
  2. 何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
  3. 革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
  4. 質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
  5. 自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
  6. 電流を受けている間は一切叫ばないこと。
  7. 何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
  8. 自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
  9. これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電線による鞭打ちを与える。
  10. これらの規則を破った場合には10回の鞭打ちか5回の電気ショックを与える。

f:id:papix:20190324161416j:plain

これは, かつてこの建物が高校だった頃は, 体育のために用いる機器だった... と説明されていた気がします. クメール・ルージュは, これを収容者を逆さ吊りにして, 水に漬ける拷問のために使っていたようです.

f:id:papix:20190324165034j:plain

この辺りの建物は, 展示室になっています. そこには, クメール・ルージュがカンボジアを制圧するまでの流れ, 当時のプノンペン市街の様子, そして犠牲者の写真, 少年看守の写真(彼らの多くは, 後に収容される側となり, 処刑されたそうです), 更にトゥール・スレンから生き延びた数少ない生存者が描いた, 当時の様子を伝える絵画などが展示されていました.

印象に残っているのは, カンボジアで長らく続く戦いを終わらせたクメール・ルージュを歓迎するプノンペン市民の写真で, そこには"HONDA"と書かれた看板を掲げた自動車かバイクの店が写っていて, これが日本を含む世界各国との繋がりがあった国で, 本当に起きていた出来事なのだ... ということを実感させられました.

...ところで, トゥール・スレンの各部屋については, フラッシュは禁止ですが, 一応写真撮影は可能... ということになっています. しかし, この展示室を含めて, なんというか... 部屋の中の様子を, 写真に残す気持ちになれませんでした.

薄暗い収容室や尋問室に足を踏み入れた時の, 心が無になるような感情. 或いは展示室に並ぶ, クメール・ルージュによって犠牲になった人々の顔写真を眺めた時の, 背筋が凍るような感情. それらを写真として残すことは出来なくて, だからこそ今見ているもの, 感じていることを大事にしたかったというか... 写真を取る間もなかったというか... とにかく, うまく説明は出来ないのだけれど, そういった気持ちになったのでした.

一応, Wikipediaのトゥール・スレンの記事には, 独房や展示室などの様子が伺える写真があるので, とは言え少しでも見てみたい... という方は, こちらの記事を見てみると良いかもしれません(少し衝撃的な写真もあるので, 閲覧に際しては注意してください).

ja.wikipedia.org

f:id:papix:20190324165637j:plain f:id:papix:20190324165712j:plain

この建物は, かつて独房や雑居房として使われていたそうです. 収容者の逃亡を防ぐため, 鉄条網が張り巡らされているのがわかります. 独房は, かつて教室として使われていたであろう部屋に, レンガや木で壁を作って構築されていました. 大きさは1畳にも満たず, 排泄は独房の中に用意された弾薬箱の中にする... という環境だったようです.

f:id:papix:20190324165716j:plain f:id:papix:20190324170316j:plain f:id:papix:20190324172146j:plain

...その当時, カンボジアで実際に起きた出来事. その結果として, 数百万人の命が失われたという事実. 情報化社会の恩恵を受けて, 自分たちのような日本人であっても, Wikipediaを見ることでその一部を知ることが出来ます. 「1人の死は悲劇だが, 集団の死は統計上の数字に過ぎない」. 第二次世界大戦においてユダヤ人の大量殺戮に関わった, アドルフ・アイヒマンが残したと言われる言葉ですが, 文章や伝聞で知れる情報というのは, どうしても「統計上の数字」に過ぎない... ということを, 改めて感じさせられました.

今回実際にトゥール・スレンに訪れて, その「統計上の数字」の中に, カンボジアで, 或いは他の国で生まれ(実際に, クメール・ルージュの犠牲者の中には, 日本人を含むカンボジア以外の国籍を持つ人も含まれています), 育ち, そして生きていた, 自分と同じ人間が, 1人, そして1人と存在していた... ということを, 痛烈に, そして生々しく知ることが出来たように思います. そして, 月並みな言葉ではありますが, このような出来事を二度と起こしてはならない... 本当に小学生並みの感想ではありますが, そういう気持ちにさせられました. 純粋に, そう思わせるだけの出来事が, かつてトゥール・スレンで実際に起こっていたのです.

f:id:papix:20190324173721j:plain

...暫くベンチに座っていると, 係員が「そろそろ閉まりますよ」と教えてくれました. 受付で音声案内機を返却し, かつて「一度入れば, 生きて出る事は出来ない」場所であった, トゥール・スレンから足を踏み出します.

ふと振り返り, 徐々に暗くなっていくカンボジアの空と, トゥール・スレンの建物を眺めながら, 「今日感じたこと, 思ったことは, きっと忘れないでいたい」と, 心の中で思ったのでした.